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中国共産党の犯罪:チベットへの侵略と虐殺

(転載です)

中国共産党の犯罪:チベットへの侵略と虐殺

■有史以来一貫して独立国であったチベット
チベットには約2100年の歴史がある。
とはいえ始めの数百年は神話と史実の境界が曖昧なので、
チベットの歴史はソンツェン・ガンポが仏教に基礎をおく
王国を築いた7世紀から語られることが一般的である。

中国では唐王朝が栄えた時代だ。

あろうことか中国では唐代よりチベットは中国の一部分であったという、
それこそチベットの全歴史を否定するような歪曲を行っているが、
西暦763年にチベットは唐の首都長安を占領し、
一時的に唐はチベットの朝貢国になったこともある。

今日まで続くダライラマ制度は17世紀に始まったもので、
それ以来ダライラマは転生を繰り返して現在では14世に至っている。
一般的な歴史観ではチベットは1727年に清朝の支配下に入ったとされる

しかし実際にはラサに駐蔵大臣2人を置いていただけで、
現代で言う大使館を開設していたに過ぎない。

チベットは英領インドと国境条約を結ぶなど
一貫して独立国家として主権を行使してきた。

20世紀前半当時、チベットは日本、中国、タイと並んで
欧米の植民地化を免れたアジアでも数少ない独立国家のひとつであった。

■中国共産党のチベット侵略戦争
1950年10月7日、中共軍がチベット東部へと侵略戦争を開始した。

チベット国境警備隊と現地の義勇軍が抵抗したものの、
武器・人員ともに圧倒的な中共軍を相手に退却を余儀なくされた。

そもそも中共軍は100万の軍勢を有している一方で、チベット軍は8500人に過ぎない。
始めから軍事力による勝敗は見えていた。

1951年5月、北京でチベットと中国との交渉が行われた。
チベットから北京に派遣された代表2人は交渉に赴いただけで、
チベット政府から条約を締結する権利を与えられていなかった。

だが中共の脅迫により強引に署名させられてしまった。
こうして1951年5月23日、チベットの平和解放に関する十七か条協定が締結された。

■チベットが中華人民共和国の支配下に入ると早速チベット人と中国人の摩擦が激化した。

当時人口7万人のラサに2万人以上の人民解放軍が進駐し、
ラサ市民は住宅と食料の提供を強制され、
瞬く間に食糧難と猛烈なインフレがラサを直撃した。

チベットと中国を結ぶ道路建設には大量のチベット人が
無報酬で強制労働をさせられ、数千人の命が奪われた。

また、中国共産党はチベットの青少年に、チベットの宗教、
文化、習慣を侮辱し、共産党を賛美する教育を強制した。

チベット人の不満が日増しに高まる中、ダライラマ法王は1954年、北京を訪問し、
毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳らと会談した。

このときダライラマ法王は一筋の希望を見出し、
中国との協調も本気で考えるようになったという。

だがその後にチベットでは、
人類がかつて経験したことがないような悲劇に直面するようになる。

■チベットへの弾圧強化

中国共産党の悪政、度重なる条約違反にチベット人の怒りは頂点に達していた。
1958年以降、東チベットではカンパ族を中心に反乱が続発、
これに対し中共軍は見せしめのため、何千という寺院や町を砲撃や爆撃で破壊、
寺院の仏像や経典を容赦なく略奪した。

東チベットのいたるところで中共軍による虐殺が行われた。
以下に『中国はいかにチベットを侵略したか』から引用しよう。

「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。
特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。
拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、
熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。

アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、
村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。

さらに高僧たちは
「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、
挙句に全員射殺された。

おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、
大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。

経典類はトイレットペーパーにされた。
僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。
何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。
僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、
「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた」

■ラサ動乱とダライラマ法王の亡命

1959年2月、中共はダライラマ法王を、3月10日に開催される観劇に招待した。
その際、警備をつけないようにという注文をつけた。
法王が拉致されるのではないかという不安が瞬く間にラサ市民の間に広がった。
1959年3月10日、3万人のラサ市民が市の中心部にあるノルブリンガ宮殿に集結、
人々は口々に「チベットに独立を、中国人は帰れ」とシュプレヒコールを叫んだ。
法王は観劇への出席を取りやめることにしたが、
大群衆はノルブリンガを去らなかった。

これに対し中国共産党は軍を増強し、事態は一層緊迫の度を増した。
3月16日、ダライラマ法王はついに決意して、
一般庶民に変装してノルブリンガを脱出し、インドへ亡命した。

3月19日、ついに悲劇は起きた。中共軍はノルブリンガ宮殿に一斉に砲撃を開始。
集中砲火は41時間継続し、宮殿は蜂の巣のように破壊され、
何万人という民衆が虐殺されたのであった。

3月28日にはチベット政府が完全に解散させられ、
チベット自治区準備委員会に統治されることとなったのである。(チベット自治区は1965年に発足した)


その後も中国共産党による残虐行為は絶え間なく続いた。
1959年4月には「民主改革」運動が行われ、ありとあらゆるチベット人が摘発の対象となった。

多くのチベット人が出頭を命ぜられ、投獄、殺害された。
比較的軽いものでも数ヶ月間の洗脳教育を受けさせられた。
以下はダライラマ法王が難民からの報告をもとにまとめたものである。

「彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまで鞭打たれたり、
はりつけにされたり、生きながら焼かれた。

溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死されたものもあった。
絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。

また、あるものは生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたり、
首をきられたりして殺された。こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。

村人たちはそれを見物するように強制された。
自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、
ゆっくりと殺されていったのである。
さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」

■文化大革命
1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。
8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。

紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、
数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、
通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や
民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。

民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、
伝統の模様を描くことも全て禁止された。

宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。
チベット語も弾圧の対象となり、会話以外では
ありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。

チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と
共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。

全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、
罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。
チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。

■総括
1978年から始まった改革開放政策によって、
中国共産党のチベットによる残虐行為は大幅に緩和された。

しかし28年間にわたる中国共産党の支配は、
2000年かけてチベット人が築き上げたものを根本から
徹底的に破壊しつくしてしまった。

6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、
完全な破壊を免れたのは8箇所であった(それとて全く被害がなかったわけではない)。

虐殺、戦闘、飢餓によって120万人のチベット人が命を失った。
チベットの人口の5分の1に相当する。
(中共侵略前のチベットは貧しくはあったが、
その歴史において飢餓を経験したことがなかった)。

■今でも続く弾圧、文化破壊
改革開放以来、大規模な殺戮はなくなったし、
仏教を信仰することも可能になったし、
破壊された寺院の再建や修復も進んでいる。

それでもチベット人に対する弾圧は依然として続いている。
1989年にはラサでチベット人による大規模なデモが行われ、
これに対し中共軍が数百人のチベット人を虐殺している
(そのときのチベット自治区の共産党書記は胡錦濤である)。

現在でも数千人が政治犯として収容されていると言われている。
ダライラマの写真やチベットの国旗を所持しているだけで
すぐさま摘発の対象となるほど自由は制限されている。

ほかにも子供たちにダライラマ法王の写真を踏み絵さたり、
中国共産党のイデオロギー教育を行うなど
前近代的な植民地支配が継続されている。

2006年10月にヒマラヤ山脈を越えて
インドに亡命しようとしていたチベット人を人民解放軍が
射殺した映像が世界に流れたのは記憶に新しい。

1995年には即位したばかりのパンチェンラマ11世を拉致監禁し、
別のパンチェンラマをたてるという暴挙に出た。

拉致されたゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は当時6歳で、
世界最年少の政治犯となった。
ダライラマ法王は亡命から48年間、一度も祖国への帰還を果たしていない。

中国共産党は半世紀以上にわたる残虐行為を認めないどころか、
「かつてのチベットは5%の僧侶及び貴族、地主が、
95%の奴隷を搾取していたが、中国共産党がチベットを平和解放し、
チベットに幸福を繁栄をもたらした」などという
まるで幼児向けのアニメみたいなストーリーを

「歴史」として宣伝しているのだから開いた口が塞がらない。

当然ダライラマ14世のことは分裂主義者、
仏教秩序の破壊者として悪者扱いである
(ダライラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞している)

近年特に深刻なのは大量の中国人がチベットに入植していることである。

もともとチベットの一部分であった青海省は今や中国人が多数派となっている
。チベット自治区では今でもチベット人が多数派であるが、2
006年7月の鉄道開通によって今後は自治区内にも
大量の中国人が入植することが予想される。

大規模な虐殺や破壊はなくなったが、
今でも中国共産党によるチベット文化の破壊は着々と進んでいる。

50年代から70年代にかけてチベット文化は徹底的に破壊されたが、
さらに80年代にかけてチベットの中国化が強化されている。

ラサ市街は今や社会主義国らしい地味な5階建てのコンクリート建築が並び、
チベットらしさが失われてしまった。
道路には北京路、福建路、解放路などの中国的な名称がつけられている。

今回は「中国共産党の犯罪」という連載記事の一部として
チベット問題を取り上げた。

なるべく多くの方に読んでもらうためにも、あまり長文になり過ぎないように、
中共のチベット侵略史をコンパクトにまとめるよう努めたつもりであるが、
凝縮しすぎたために、十分には伝えきれていないかもしれない。

にも拘らず字数は4500字を超えている。
中共のチベットへの残虐行為がいかに膨大なものかを示しているといえよう。

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以上フェイスブック上の記事より転載させていただきました
by natura1124 | 2013-09-01 00:09 | 歴史